「丁度良い」という境地.
この文面を、「どなたからいただいたものか?」、はっきり思い出せません。もう10年以上になるでしょう。『丁度よい』という、良寛和尚の言葉です。江戸後期の禅僧です。良寛は素晴らしい詩歌などを残していますが、この文章は私の探した文献などには、ついぞ見つけることができませんでした。「ゆふいん」といのも、謎です。大分県の湯布院だとすると、禅師の旅行脚に、九州に行ったという記録は、ありません。
とは言っても、いい文章です。この文面を見た方が、これまで5―6人興味を示され質問されました。ところが、私も、蒙昧です。文献などをあさりましたが、不明でした。
この文面を、事務所の玄関にも掲載しています。自宅の自室にも張ってあります。コピー屋さんで、フィルム加工をしてもらいましたので、何年経っても汚れません。
清心枯淡の境地にあり、子供たちと無邪気に手毬で遊ぶ。詩歌・和歌・墨書・水墨画に、優れた足跡を残しています。
新潟県;越後の国上山(くがみさん)五合庵で、美しい弟子 貞心尼と、晩年を送りました。
俗物で、ストレスの塊である小生にしてみれば、一休宗純禅師・白隠禅師・大愚良寛禅師らの生涯は、うらやましい限りです。
いつの日にか、彼らの爪の垢でも煎じられるくらいの境地には達したいと念じつつ、世俗の塵埃に埋もれている自分に恥じ入ります。私自身としては、「丁度良い」という、境地にはほど遠い毎日なのです。
私も、いずれ禅の道に入り、多くの尊敬できる禅僧たちの薫陶に触れながら、この世を去って生きたいと願っています。いまも、禅に関する文献・ビデオ・写真集などの資料はそろえています。