呟きさんのblogのとおり、同じような・・・
●形容できない
3.11(午後2時46分)、あの大地震はすごかった。
私は自身の事務所(仙台)にいました。築37年目のビル9階です。激震5分近くどうしようもなかった。NZクライストチャーチのビル倒壊の報道が脳裏に浮かびました。このビルも崩れるのだろう・・・と。
●余震で、死ぬところでした
そして、4.7夜11時33分まもなく深い眠りにつくところでした。お酒と安定剤を飲んでいました。頭部・胸部が倒壊家具の真下でした。すんでのところで、子ども部屋に子どもの名を叫び、飛んでいきました。
入眠していたら、間違いなく死んでいた。この6月3日にしてなおトラウマに悩んでいます。
仕事柄、毎日お客様の大震災後のお話を伺っています。そのせいか自分の精神的ダメージから抜け出せません。
●灯籠流し
弾みなのか、宿命なのか、大震災・大津波で永逝なさった方の御霊のための灯籠流しの実行委員長になってしました。
●生きていて、永逝された方もいらして
お互い生きていて、親族も生きていて、ただ永逝された方のことを思うと心はいたたまれません。胸も張り裂けそうです。自身の人生も不幸・不運だ実感していますが、どうしようもない切なさです。
とくに、子ども好きの小生は、子どもが永逝された報道・伝聞などには、目頭が熱くなります。
●呟きサンのblog
呟きサンは、よくぞしたためられる。あの日のことを書くことは、えらい。
彼に引きずられて、ここまで書けました。
呟き尾形の雑記帳の読後・・・
http://son.cocolog-nifty.com/tetugaku/2011/06/post-78f6.html?cid=63432834#comments
20110603fri
鎮魂!追悼!東日本大震災犠牲者 広瀬川灯籠流し
昨夕のことです。
急遽、仙台太白区 郡山にある会合に呼ばれました。
そこで、「鎮魂!追悼!東日本大震災犠牲者 広瀬川灯籠流し」(仮称)8月11日開催のため、打合せ会(準備会)があったのです。
私にも「出席するように」との要請がありました。
20名くらいの実行委員(準備委員)でした。
なんと、小生が実行委員長に推挙されました。普通の役員なら固辞するところですが、このような日本史上空前(絶後か?)の大震災・大津波・原発大事故です。
犠牲者の方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げつつ、受任することにしました。
当然ながら不測・不本意で多くの方々が、お亡くなりになられました。「この方々の霊を、此岸から彼岸へお送りさせていただく」ということが、『灯籠流し』の本義であり発祥の理由です。
1個1個(1台かな?)の灯籠には、残念無念・悲哀悲嘆・遺憾痛惜の霊が載られているとのことです。
「ぶじ、あの世に着かれ、安らかにお休みになられますように・・・」という御霊灯籠への思い入れとお見送りです。
来週から実働開始となります。小生に課せられた使命に重いものを感じます。
20110529sun
このブログの動画を再開したいが・・・
昨日から私のblogに動画を貼り付けられなくて、すっかりノイローゼ状態です。
ヨドバシにも伺ったところ、結局「サーバーの動画貼り付けのデータ形式が分からないとソフトはご指示できません」との回答でした。
PC顧問(東京西青山)とも連絡を取り合い、仙台営業所Aさんにも相談中です。
動画に再挑戦のため、模索中です。動画ができないと、大きく後退してしまう。
なんとか切り抜けるため、次の一手を検討中です。
20110515sun
ぶっとい注射
私は、子どもの頃から一貫して注射が大嫌いです。
先般、知り合いに医師のところに用事が会ってうかがいました。
せっかく来たのだから診察も・・・」と思いきや、医師から「注射していったほうがいい。久保クン注射!」と、有無を言わさず注射をされました。
この動画は、注射の嫌いな方にはお薦めできません。
ご覧になる場合は、あくまで自己責任においてご覧ください。
小生はいかなる責任もとりません、対応も、一切いたしません。あくまで観る方の個人的な本人の帰責です。
※映像の貼り付けに失敗したので、後日、改訂します。
天地 ひっくり返る
2011年3月11日(金)午後2時46分 東日本大地震。
続けて、宮城県・岩手県・福島県 沿岸部に大津波。
さらに、福島 原子力発電所 レヴェル7の大事故 テルノブイリ、スリーマイル島より最悪か!?
同年4月7日(木)午後11時33分 大余震。 私は、寝るところだった。私の頭部・胸部に大きな箪笥が倒れてきた。眠入っていたら死んでいた。危ういところでした。
その他、余震は大小数え切れません。毎日のように続発しています。
小生のTwitterをご覧ください → http://twitter.com/search?q=kubitter
私のちゃちな写真より、河北新報(4月1日 朝刊)の写真がすべてを物語る。町がなくなった。子どもたち74人が一瞬にして、いなくなった。悲劇。悲嘆。絶望。
20110514sat