生の究極は「禅」.
私の究極は、「禅」です。
30代初めに、『この世に生まれてきたこと、それ自体を憎悪してこの世を去っていく』という実存主義哲学のサルトル;Sartreの言葉に出会ったときは、ショックでした。
しかし、精神的・神経的に悩みのドン底にあって、森田正馬のサイコセラピー;精神療法を通じて、禅を知りました。30代後半でした。
それから、長い期間いろんなTPOで、「禅」との交わりがあります。『仙台禅道会』にも通っていました。
いまは、多賀城市の不麟寺(「りん」が難字で出てこないのであとで探します)で開催されたいますが、時間と距離のため通うことができないでいます。
私個人の菩提寺も、臨済宗妙心寺派 大慧山 定林禅寺に入らせていただきました。瑞巌僧堂(松島瑞巌寺)と円通院様のお導きでした。
もともとの久保家は、浄土真宗(親鸞)でしたが、親鸞の「歎異抄」は、当時なかなか理解できませんでした。いまは、かなり理解できます。
私には、「禅」の道です。それが、『生の奥義を、きわめるもの』との認識に、達しています。
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自動車の買換えには、二の足を踏んでいます.
私の愛車であるオデッセイは、もう10年間乗っています。そろそろ買換え時かなと、思い始めていますが、走りはまだ絶好調です。また、走行距離も、いまだ56000㎞です。買い換えるには、」早過ぎます。あと、2~3万キロはいけます。
それでも、ワイパーの金属部分まで錆(さび)てきました。ホンダカーズ宮城で、交換してきました。
もう一台の愛車は、キャパです。主に仕事で使っています。こちらも、まだまだです。およそ46000㎞しか、走っていません。
あとは、ホンダ・ライフを2台、維持していくのが目一杯です。
いまは、子どもの大学授業料などと、さらに彼の資格試験で、物入りなのです。倹約しているつもりです。不景気もあって、貧乏しています。どうしてもやむをえない出費が、あります。贅沢はしていません。
旅行なども、控えています。ゴルフ・釣りは、やりません。パチンコ・麻雀、その他の賭け事の類(たぐい)は、一切縁がありません。タバコは、大嫌い。お酒はなるべくウチで少々、安いお酒です。
かけているのは、本とDVDくらいです。書籍は仕事柄やむをえないことが多くあります。
あとは、道楽的なことはスポーツクラブだけです。
※まだまだ、走れるホンダ・オデッセイ.
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想い出の映画~ベスト10の、もう1作.
1926年、外国排斥運動が起きつつあった中国の上海を舞台にしています。いまは亡きスティーブ・マックイーン主演「砲艦サンパブロ」です。1966年(昭和41年)のアメリカ映画です。
「水兵」役のマックイーンと「宣教師」の娘バーゲンが、中国人(モンゴロイド)に対し、差別的ではなく接している姿が珍しかった。当時のアメリカ映画は、ほとんどモンゴロイドを初め、アジア人を見下して(差別して)いました。
この映画は、私の若き日において、しすばらくの間“ベスト1”の洋画でした。いまでも、このスクリーンの想い出にひたり、最近DVDが販売されたので購入したのです。嬉しい再会(?)でした。私にとって、忘れられません。
私は、スティーブマックイーンもずっとファンでした。彼の作品もかなり観ました。「荒野の7人」・「大脱走」・「華麗なる賭け」・「ブリット」・「ゲッタウエイ」その他、5-6作品は観ました。
彼もかっこ良かったのですが、よりファンになたのがキャンディスバーゲンでした。それ以来、『私の愛するスクリーン女性』ベスト5の1人なのです。さて、あとの4人は誰か?
この映画でキャディスバーゲンは、キリスト教宣教師の娘の役柄でした。
彼女は、1946年5月9日生まれですので、いま還暦60歳です。
そのほかにも、彼女の作品の虜(とりこ)になっています。
「ベスト・フレンズ~ジャックリーヌ・ビセットと共演」、「続ある愛の詩~ライアン・オニールと共演」、「風とライオン~ショーン・コネリーと共演」、「愛の狩人~アート・ガーファンクルと共演」、「デンジャラス・ビューティ~サンドラ・ブロックと共演」・・・そのほか、10数作に出演しています。知的な美しさをそなえた女優です。
この「砲艦サンパブロ」には、なんとケイン・コスギのお父さんショーン・コスギが出演しています。
※ケイン・コスギのお父さんです.相当な、空手の腕前とのことです.
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法学検定.
JLF(日弁連法務研究財団)の「法学検定試験」があります。11月です。来年の、法律関係の試験勉強のための、準備とトレイニングを兼ねて受験しようと意図しています。
仕事の多忙さ・家庭への配慮・年齢的ハンディ・公私の中間的な社交的つきあい・・・etc。
その他もろもろの条件は、けっして恵まれてはいません。
しかし、そんな愚痴を言っているときではありません。愚痴を言ったら、それだけで敗北への「事前の言い訳」をしているだけです。
多忙の中で、時間を見出していく、作っていく、創出していくのです。時間は、天から与えてくれるものではないのです。すべて、自己管理・生活節制にかかってきます。
「勉強」というより、『禅』でいう、修行・精進なのでしょう。いずれ、禅についても、したためていきますが、これは、私の人生における“臘八大接心”なのです。
『禅』でいう、人生的・人間的な「鍛錬の場」であり、「修行道場」なのです。
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