親しい旧友からの相談。
親しい旧友(Sさん)からの相談でした。
旧友とはいっても、しばらくお会いしていなかっただけで、いまでも親しくさせていただいています。
また、私にとっては目上・年上(62歳)の方です。
私を頼ってきてくださったことは嬉しいのですが、相談事はかなり取り返しのつかないところまで、進捗していました。
新たな事業を起こす段取りまで付いたところで、高齢のお母様が急に病気で入院です。
お母さんも事業のキーマンです。
肺と心臓です。検査と治療に入っています。
困ってしまい、私へ急遽相談ということになりました。
その病院までうかがいました。
24日;土曜日の午後、仙台の東にある病院で打合せしました。
道路が込んでいたので。2時過ぎに出て、打合せ・相談が2時間弱です。
自宅に戻ったときは、5時過ぎでした。
でも、彼から「最後にだけど、頼りにされた」ということは、友情・信頼関係としてありがたいことと受けとめています。
「もっと、早くに相談されていたら・・・」という、悔いは残りますが、時計の針は絶対に戻ってくれません。
じっくり相談できたので、来週から実稼動します。
070324sat.
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一抹の寂しさとともに・・・。
一抹の寂しさとともに・・・。
「さようなら、キリン・スポーツクラブ!」。
私は、22年間通いました。
新しい経営者になっても、続けます。
“キッツスポーツスクエアせんだい”です。
昨日(24日・土)に、私にとっては、キリン最後のスカッシュとラケットボールでした。
スカッシュは、かつての学生サークルOBハシモトさん(26歳;男性)が打ってくださいました。
かなりの上級者ですが、私のレヴェル(中級者)に合わせてくださいました。
ラケットボールは、いつものスタッフタイジくん(23歳)です。
「これで、キリンとしては『打納め』です。ちょっと寂しい・哀しいかな?
また新たな“キッツ”で、肉体が朽ちるまで、スカッシュとラケットボールをしていきます。
“キッツ”さん! よろしく !!
070324sat.
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“尾形園芸”です。
配偶者の実家です。(有)尾形園芸といいます。
東松島市(旧 鳴瀬町)野蒜にあります。
しかし、「サラリーマンでは、先が見えている。花が好きだ」ということで、会社が休みの日、花造りをし、それをリヤカーで売って歩いたそうです。
その花売り(鉢花)が、好評でした。
会社をやめ、自身の本家に頼んで、本家から野蒜の小さな土地を貸してもらいました。
それが尾形園芸の始まりです。
いわば、「文無しでの出発」・「裸一貫からのスタート」でした。
※花が咲く前の、鉢です。
配偶者は、石巻の製紙会社の社宅(長屋)で生まれ、3歳の時に父親が製紙会社を辞め、鳴瀬町野蒜で花造り(鉢花・花卉)を始めたということです。
それから39年の月日です。鉢花・花卉(かき)などの運営・経営はけっして順調ではありませんでした。
つらい時・厳しいもあったようです。
植物ですが、『花』は、生き物です。
配偶者から聞くところ、「家計は厳しかったけど、両親が一生懸命働いている姿が、心の支えだった」と、語っています。
それを乗り越えて、いまは17もの園芸ハウスで、おもにシクラメン・ペラルゴニュームを中心に花の製造・販売に精をだしています。
「花の製造は、それほどの儲けはないんだよ」と言いながら、“趣味と実益の39年”です。しんどかったけど、生きがいを持って商いができたようです
もう古稀;70歳ですが、現役です。元気に働いています。
※直売もしています。
(有)尾形園芸そのものは、長男夫婦に経営権を代替わりし、二男夫婦も戻ってきて、新たな体制が整いつつあります。
岳父自身は、まだ新しい花造りに夢を持っているようです。
70歳でいまなお意欲満々です。トラックを運転して、DIYや量販店に花を納品しに行っています。
幾度となく農林大臣賞・農水大臣賞をいただき、多くの園芸農業の研修生・農業後継者・転農者を育ててきました。
尾形園芸に行くと、いつも苗鉢や開花した鉢花で咲き乱れています。
まさしく、壮観です。
初めて行ったとき、その美しさに目を見張りました。フリーズしてしまったのを覚えています。
花の絨毯(じゅうたん)なのです。
※花の種類は、シクラメン・ペラルゴニューム・カザニア・テルスターなどです。
070321wed.
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お彼岸でした。
21日(水)は彼岸の中日です。「春分の日」で祝日です。
18日彼岸入りした「彼岸の中日」です。
配偶者の実家に、お墓参りを兼ねて遊びに行ってきました。
体調・ストレスも改善されつつあるので、羽をのばしてきました。
20日(火)配偶者と我が子は電車で先に行ってゆっくりしていました。
先妻の子(大学生)に留守を頼んで、夜、東松島市(旧 鳴瀬町)に1時間のドライブです。
その夜、尾形家(私の家族も含めて)一同、12人で食事と酒宴です。
女性軍~配偶者と兄嫁、弟嫁~の3人は、かなり遅くまで歓談していました。
翌日、すぐ近くにある“大慧山 定林禅寺”に全員でお墓参りです。
このお寺さんは、“松島 瑞巌寺”の直系です。禅寺では「法系」といいます。
松島 瑞巌寺は、正式名称を「松島 青龍山 瑞巌円福禅寺;しょうとう せいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ」といいます。
臨済宗妙心寺派に属しています。
このお寺さんは、瑞巌僧堂という禅の修行道場がメインです。
※3代前の瑞巌寺 五雲軒老師(加藤隆芳 様)の石筆でしるされた定林禅寺の墓碑銘。瑞巌寺直系の証しです。その後、素雲軒老師(平野宗浄 様)、現 起雲軒老師(吉田道彦 様)です。
開創は、平安時代ですが、歴史の波とともに歩み、伊達政宗に庇護を受け観光名所となるほどに絢爛豪華なお寺になりました。
寺には、70歳で逝去した伊達政宗の位牌が置かれた。そのため、子息 忠宗・妻 陽徳院・娘 天麟院などがあり、政宗の孫 光宗が西隣の円通院に祀られました。
その円通院のご住職が、私の高校の同窓 天野広道 先輩です。
当時、私は、懸命に禅の勉強をし、坐禅会にも参加していた頃です。
そこで、「私がこの世を去ってからの、終の棲家(ついのそみか)として、菩提寺をどこにするか」を天野先輩のご相談しました。
当時は、ある事情で円通院様では、檀家をとっていませんでした。
相談に快く応じてくださった先輩は、「お前は定林禅寺へ行きなさい」とお導びきくださったのです。
それが、『タマタマ』と言うべきか、『天の定め』と言うべきか、これを『運命』と呼ぶのでしょう、『配偶者の実家と同じお寺さん』になりました。
私の旧家は、親鸞の浄土真宗です。蓮如が「歎異抄」を著しています。
旧家は、長男である私の兄が継承していくことでしょう。
その頃は、親鸞や蓮如の考えに疑問を抱いていました。
いまは、五木寛之のおかげで、疑問は解けましたが・・・。
※定林禅寺は、昔、三分一所氏という豪族の三男が建立しました。
※三分一所氏の三男一族の墓碑です。
まあ、そんな経緯(いきさつ)で、配偶者の実家と同じく定林禅寺に参るのです。
天野広道 先輩のお導きのこの禅寺(定林禅寺)を、私は大いに気に入っています。
まさに、宿命的な「私の骨の埋め場所」なのです。
070322thu.
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このメンツでの「飲み会」は、初めてでした!
このメンツでの「飲み会」は、初めてでした!
会場は、河童亭(かっぱてい)~大学の先輩である神永久雄さんがオーナーのお店です。仙台では老舗です。
仕事の関係で、不動産会社・宅建業者(仲介)・測量士・司法書士、そしてそのスタッフ7名での、飲み会でした。
途中から、河童亭(かっぱてい)のオーナー神永久雄先輩が加わって、8人でハイテンションになってしまいました。
このメンバーでの飲み会は、これが最後かもしれません。
不動産会社の方が、本体のゼネコンに異動なさるための“ごくろうさん会”でした。
6時から9時半まで、ここで一次会です。
ところが、私以外は、二次会・三次会、さらには四次会まで行ったそうです。
私は、前日に胃の診察と検査をしていましたので、ホドホドに帰宅というところでした。
しかし、世の中はそんなに甘くない。
帰宅したら、大学生の我が子から、「相談がある」とのことで、また一緒に飲み直してしまいました。
節酒、たまに禁酒を真剣に考えなくてはなりません。
厳しく、ハンセ~イ!!
070316fri.
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